仏教の精神を明快な言葉で表現した禅語は、私たち日本人の暮らしに今も息づいています。禅語を味わうことは、マインドフルネスを理解する大きな助けとなるでしょう。

「日々是好日」(にちにちこれこうじつ)
禅語①
人生は雨の日も風の日も、また晴れの日もあります。
禅語としても、茶席の言葉としてもよく知られたこの語は、毎日が良い日でありますようにという誓願ではありません。
楽しい日も、悲しい日も、苦しい日も、その日は一生で一回しかない一日です。精一杯、今日一日を「生き切る」ことの積み重ねをもってこそ、人生は清々しく、豊かな気づきに満ちたものとなってゆくでしょう。
「行住坐臥」
禅語②
(ぎょうじゅうざが)
坐禅をしたり、お経をよんでいるときだけが修行なのではなく、朝起きてから夜寝るまでの全ての行動ひとつひとつを、ていねいに、一生懸命におこなうことにこそ、禅の精神が表れてくるということを示しています。忙しい日々を送る私たち現代人にとって、静かな部屋で毎日坐禅することはなかなかできませんが、通勤の行き帰り、電車内やホームでほんの少しの時間、「今ここ」に心を置いてマインドフルに過ごすことが、大きな心の整いにつながってゆくのです。
「歩歩是道場」
禅語③
(ほほこれどうじょう)
日常のどんな物事でも、一瞬一瞬集中して取り組むことが禅の修行そのものであることを説いた言葉です。禅の修行というと、ひたすら禅堂で身じろぎ一つせずに坐禅を続け、少しでも動いたりうたた寝したりすると、「警策」という木の棒で背中をバシッと叩かれるというイメージが強いのではないでしょうか。私も鎌倉「建長寺」の修行道場で3年あまりの修行生活をさせていただきましたが、実は禅の修行で重視されるのは坐禅だけでは決してなく、生活の中の行為すべてであると、厳しく指導を受けました。食事をいただいたり、歩いたり、畑を耕したり、トイレを掃除したり、庭を掃いたり、板の間を雑巾がけしたりといった、生活の全てが修行の場なのです。江戸時代に衰退した臨済宗を復興させた、臨済宗中興の祖「白隠禅師」は、「動中の工夫は静中の工夫に勝ること、百千億倍す」という言葉を遺されています。坐禅だけしていればそれでよいのではなく、毎日の生活における一つ一つの行い、その全てが修行と思ってひたむきに取り組みなさい、ということを教えてくれているのです。
「冷暖自知」
禅語④
(れいだんじち)
水が熱いか冷たいかは、実際に飲んだり、触れたりして初めてわかるという教えを通して、禅の神髄はただただ修行の実践を持って体得できるものであるということを示しています。マインドフルネスは、様々な精神療法の中でも「行入」、つまり実際に行いとして取り組むことが求められる治療法です。心の病を患われた方だけではなく、広くどんな方でも、今ある心の在りようを健やかに、豊かなものにしてくれる精神の健康増進法でもあります。身につけるためには「理入」、つまり学んで理解することも大切ですが、それだけでは十分ではありません。実際に生活の中で取り組んでこそ初めて意味を成すのです。そしてその体験の素晴らしさは、実践した人のみが知ることのできる、生きることの喜びに他なりません。